はじめに   
1.御嶽山の概観

木曽御嶽山は長野県と岐阜県の県境にそびえる、標高3067mの山である。

山は裾野を大きく広げたコニーデ型の美しい独立峰で、北アルプスの南端に位置している。

山麓の広がりが約25km、垂直の高度差が2200m以上ある大きな山塊で、山腹は

渓流に削られて多数の渓谷をつくりだしている。 山頂、山腹、山麓には自然がつくりだした

さまざまな造形を見ることができる。八合目以上の山頂付近は、火山地特有の荒涼とした

景観からなっている。山頂の南斜面からはガスが吹き出し、古くから地獄谷と呼ばれてきた。

1979年10月28日には有史以来の眠りからさめて、突如大噴火を起こした。また

1985年には大規模な地震が起こるなど、人々に自然に対する荒々しさと一種の畏怖感さえ

与える山である。  山頂には五カ所の噴火口があり、二ノ池と三ノ池は今も水をたたえ、

四ノ池は湿原となり花畑の様相を呈している。更に高峰が四カ所あり、継母岳(ままははだけ)

は最も西南部に位置する峰で標高が2867m。剣ケ峰(けんがみね)は御嶽の最高峰を誇り、

次いで2959mの摩利支天岳(まりしてんだけ)、2859mの継子岳(ままこだけ)は

緩やかな斜面となり、高天原をつくる。賽の河原(さいのかわら)は古くから積み石が

数多く構築され、独特の景観を醸し出している。




2.御嶽山の開山

御嶽は長野県木曽郡と岐阜県益田郡との県境にまたがる、標高3,067mの独立峰である。その

雄大な山容は人の心を魅了し、神仏を祭礼する信仰の岳とされ夏期には多くの信者が登拝

している。 祀る山神は国土経営と医薬の神である国常立尊(くにのとこたちのみこと)と

大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神であり、

創始由来はつまびらかでないが、大宝2年6月(702年)に信濃国司高根道基が創建したものと

伝えられる。 地方的霊場の域を出なかった御嶽が全国的な霊場として広く日本国中の信者から

崇敬されるようになったのは、天明年間に現れた覚明(かくめい)行者と普寛(ふかん)行者の

二人の熱烈な布教の結果である。覚明行者は、尾張国春井郡田楽村の人と云われ、

天明五年(1785年)に木曽を訪れ、黒沢口登山道の改修に努め従来は道者しか登拝できなかった

御嶽に、一般の人達も水行を行っただけで登山できるように改めた。普寛行者は、武蔵国

秩父郡落合村の人と云い、寛政四年(1792年)に王滝口に登山道を開き、江戸市中を中心に

関東地方に御嶽信仰の普及をはかり、講社の結集に努めた。  この両行者の努力によって、

御嶽信仰は全国的に広がり、さらにその後、有力な行者が相継いで現れ、この信仰によって

病苦が救われることが信頼され御嶽講社が全国的に結成された。

御嶽山には自然が作り出した様々な造形がみられ、多くの高山植物が生育する。

これらの植物は御嶽信仰と合致し、御神薬として様々に利用されてきた。


3.百草の発祥

「御嶽山の霊薬百種を採り集めよく煎じ詰めて薬を製せば霊験神の如し、

これを製して諸人を救え」一説によると、普寛行者にこの伝授を受けた村人は、

苦労して100種の霊薬を採り集め薬を製造した。これが今に伝わる木曽の百草である。

普寛行者の教えにより、御嶽山麓で製造された百草は、キハダのほかに御嶽の

霊薬百種といかなくとも貴重な高山植物を配合し煎じ詰めて乾燥エキスとし、

竹の皮の包まれた漆黒の小判のような形をしていた。 その処方は製する人により

多少の相違はあったが、キハダを主成分とし、御嶽の五夢草といわれるコマクサ・

オンタケニンジン・トウヤク・テングノヒゲ・オウレンを加え、なおタカトウグサ・

ゲンノショウコ・オニク等も配合されていたといわれる。  御嶽山麓には古くから

薬として利用されていた植物が極めて多い。村人はこれらを単独で利用していたが、

それらを配合することによって効能や効果を高め、万能薬となす教えであった。

このような自然環境が伝統的な医薬品「百草」を生んだともいえる。



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